長い不況の始まり、雑記

これからの世界、これからの戦い方

ついに日本経済の見通しが悪化に転じてしまいました。オリンピック不況はオリンピック関連の建設ラッシュが終わった後に始まるということなので、わかっていたことではあります。しかし・・・チャイナリスク、ブレグジットと、世界経済の見通しもどうなるかわかりません。我が国は、すでに20年間以上も失われ続けてきました。これでこのまま消費税が増税されるとなると、全く先が見えません。

わたしは、フランス革命のような市民による革命はここへ来て失敗だったのだということが証明されたのではないかと思っています。ヨーロッパを見てください。もし、労働者階級が支配階級になったとしても、結局は強奪の対象が代わるにすぎません。愚かなことに、搾取と奪い合いの連鎖は止まりません。奪い合いとは、欠乏の恐怖から起こるものです。人類とは、いつまでたっても森に住み、盲目で、捕食者におびえ、飢餓に苦しみながらヒステリックに震えるサルにすぎないのでしょうか。貧者のための椅子取りゲームには、我々庶民はもううんざりなのです。すでに現在は、トマス・ピケティによって、r(資本収益率)>g(経済成長率)であることが暴かれている世界です。殺伐としたゼロサムゲームの果てにある、グローバル化の奴隷になんて、誰がなりたいと思うのでしょうか。奪うだけでなく、分け合い、助け合い、足るを知って調和し合う世の中が来ることを切に願います。しかし、それにはまだ時間がかかるでしょう。我々人類はまだ、愚かで醜悪な戦争をしてからまだ100年も経っていないのです。人間自体が本質的に変わらなければ、更に醜悪な形で歴史は繰り返されるでしょう。

平等とは、他の人の権利を奪うための概念ではありません。薄っぺらく軽薄な人間の群れを作り、奴隷化するための暴力装置ではありません。平等とは、敵と共にあっても互いを認め尊重して永遠に生きていく、心の状態のことなのではないでしょうか。それがあって初めて、自由や博愛が成立するのではないでしょうか。

今日は、すでに終わってしまったこの世界で、これからどう生きるべきかについて考えてみました。私が、であって、誰に強制するものでもありません。正解を提示するものでもありません。ただの、私的な出口のない問いかけです。

あらゆる生は、自分自身であるための戦いであり、努力である」―オルテガ

生きることとはstruggleし続けることであり、生まれた瞬間からそれは始まっています。犬や猫にすら、牙や鋭い爪があります。だからこそ、この下降していくたそがれの世界で、精一杯あがき続けなければならなりません。Eクワドラントから別のクワドラントへと、必死に泳ぎ切らなくてはなりません。たしかに、ぶっちゃけ竹中平蔵に象徴される人々が悪いのかもしれません(それはそうでしょうよ)。でも、私は革命家ではありません。何かのせいにして生まれてくるものなんて何もありません。今ここでコントロールできないことを願っても無意味です。できることを淡々とやるだけです。例えば世の中がお金が全てであるならば、その価値を提供できる自分になることです。生きるためにそれが必要であるのだとしたら。それに、よりよい世界を夢見ながら死を待つのは、私の趣味ではありません。

なんだか疲れてきました。今飲んでいる抗生物質のせいかもしれません。この週末は体を休めて、来週からトライアルを再開します。次回は軽い投稿になるかもしれませんが、とにかく!トライアルファーストでがんばります!

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