ジョブ中です。類似特許の読み込みをし、訳出を完了しました。納期が長かったので類似特許は7、8件読むことができました。しかし、読みやすい日本語に英文に即して直すところで時間がとられてしまいます。
突然ですが、ロボット工学の世界では、「不気味の谷」という現象があります。
外見を巧妙に人間に似せてロボットをつくっても、なんとなく違和感を感じる、違和感どころかなんとなく気持ち悪いと感じることをいいます。ロボットではないですが、日本人形などがそうですね。
以下は、擬人性の高いロボットを観察する人間を被験者とした感情的反応のグラフです。

ロボットが人間の見た目に似てくれば似てくるほど、不気味の谷は深くなっていきます。
人間そっくりなのに、生きていないことが明らかであるということがわかるって、なんとなく怖いですよね。見た目は人間なのに似て非なるもの。それは、観察者たる人間が対象物に対して死の臭いを感じるから、恐怖というか厭わしさを感じるのでしょうか。
文章においても、私はわかったような、知ったかみたいな死臭のする文章は書きたくないと常々思っております。
ムンクは以下の言葉を残し、のちに「叫び」という傑作を残しました。
息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描くのだ。
芸術と同じように、言葉というのは、もともとそれを脳で思考し喉で発音する人間がいるということが前提のものです。そのため、その発言者の肉体の、血の要素が色濃くでてきます(だから多くの文学は不道徳なものなのではないでしょうか)。つまり、人間の書く文章というのは、否が応にもその人自身が出てきてしまうということです。
ということで、翻訳においても、私は訳文に「血が通っているか」、「生きているか」ということを常に意識して訳文生成することを心がけています。英文を忠実に再現するということはもちろん大前提のことですが。
「血が通っているか」というのは、ひいては「理解しているか」と同じ意味です。行間が読めるかということです。その言葉が持つ、にじみのようなものが拾い上げられるかということです。原理を理解していないと、わかっているのかわかっていないのか、不気味の谷にさまよい込んだかのような訳文になってしまうのです。そして、「生きているか」というのは、自分ではなく書き手の息づかいを読み手が感じるか、ということでもあります。
(あくまで理想です。現時点では悲しいかな、そこまでできておりません・・・)
翻訳ではそうはいきませんが、自分が好きなように書けるこのブログでは、かしこが書いたような、ねぶたい文にならないようにしたいと思っております。あくまでも誠実にありたいと思っています。こちらもまだまだ理想ですが。
来週は言語学に関するビデオセミナーを重点的に視聴しようと思います。
なんというか、前回同様、今回も散文的な記事になってしまいましたが、落ち着いたらまとめ記事を書いていきたいと思っております。免疫システムについてのまとめをしたいところですが、時間が取れておりません。
免疫も興味深いのですが、最近新しく学会に入りました。日本抗加齢医学会というところです。これについてまとめられたらまとめていきたいと思います。これからの時代は、AIだけでなく、生きている人間にとっては不老、そしていずれ不死がキーワードになるのではないかと思っています。はやく学会誌、届かないかな。
閑話休題。not A but Bってどう訳すんだっけ、と思って調べたら、アインシュタインの素晴らしい名言が出てきましたので、今週はこちらで締めくくりたいと思います。
成功者になろうとするのではなくて、むしろ価値ある人間になろうとせよ。
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