マウンティング女子との付き合い方

現状として、ありがたいことに翻訳のお仕事を引き続いて頂いております。仕事はなるべく前倒しに進める方針のため、今週は学習の時間が取れませんでした。今回は趣向を変えて、フリーランスになって考えるようになったことをちょっと書いてみようと思います。

女性の職場で悩むあなたへ

私は今でこそフリーランスとしてなんとかやっていますが、最初は正社員で雇われ、その後派遣社員として働いてきたので、正社員・派遣社員どちらの立場も理解できます。就業先は、大企業、中小企業、下請けメーカーと様々な規模の会社を一通り経験してきました。

しかし、職場ではことあるごとに私はなぜか女性に嫌われ、その理由がはっきりわからないままでした。そのような女性と一緒にいて、仕事をし、お話をしていると、人種が違うのかと思われるくらいの違和感をなぜか感じている自分がいました。そのため、そのような人たちに、もっと気を遣え、といわれても、どうしたら良いのかがわからなかったのです。

サービスの基本は、人を喜ばせることだと思います。しかし、どうすればこのような人たちが喜ぶのかがどうしてもわかりませんでした。自分が嫌なことは人にはするな、とよく言われますが、自分が喜ぶことを人にしろということは、このような人たちにはあまり当てはまりそうにはありませんでした。

しかし、その理由が「女子の人間関係」という本を読んでわかったような気がします。女性の職場でお悩みの人は、この本を読むと、あなたのまわりのお局様やママ友、マウンティング女子達がなぜあんなに攻撃的で、感情的になるのか、その原因を紐解くことができるのではないかと思います。


女子の人間関係

女性の職場でどう振る舞っていいかわからないあなたは、まず、女性とはどういう存在であるかを学ぶ必要があります。

この本によると、そのような女性たちは、十分に傷ついた存在だということです。

女性の幸不幸は、自分ではコントロールできないものによって大きく左右されています。例えば、容姿と年齢です。容貌というものは、父母から受け継がれるものですので、自分で選ぶことはできません。また、年齢による容貌の衰えは等しく全ての人から奪われるものであり、個々人の努力ではどうすることもできません。

また、人生の選択に対しても、女性は常に受け身でなければならないことを強要されている、ということです。例えば、結婚についても、特に日本では、男性にパートナーとして選ばれるという考えが一般的です。また、子供は天の授かり物と言われます。出産できるかできないかは肉体的なことなので、自分で選ぶことができません。

このように、女性の幸福というのは、他人(パートナーや子供)や見た目といった、他者からの目を通してもたらされるものでした。

不毛な幸福論と不平等感

前回、認知言語学を勉強して思ったのですが、幸福という概念は相対的なものであるということです。ここで言及される「幸せ」は、他人の目を通しての「幸せという概念」に過ぎません。

実際に、結婚しても不幸な人はいるし、しなくても幸福な人はいます。もちろん、その逆もしかりです。美しければ、年をとって容姿が衰えることは不幸でしょう。しかし、年をとることで、知見が豊かになり、幸せを多く感じることもできるようになります。

他人の目を通しての幸せということは、それは多くの顔の知らない赤の他人からみたつぎはぎの幸せであり、統合した一個人の幸せではないのです。それは、かけがえのない、誰とも交換不可な「わたし」の幸せとは到底かけ離れたものです。そして、それが幸せであると仮定するならば、そのつぎはぎだらけの幸せに当てはまらない私は不幸なんだという、不毛な結論を引き受けなくてはならないのです。

テレビや雑誌を見ると、胸が大きくて若くてきれいな(つまり、自分よりも生殖能力の高い)芸能人がキラキラした商品を売っており、SNSではこれまたキラキラしたライフスタイルを見せつけています。上記の幸福論を真に受けると、この消費社会では、女性は絶えず誰かと比較されおとしめられる存在ということになります。

そういう人は、これでも読んでおけ!といいたいところですが(しかも今やすでにポストモダンは終わっているのです)、それはさておき。


消費社会の神話と構造 新装版

マウンティング女子や、ママ友やお局様といった困った人たちは、このような間違った幸せの定義で自分をおとしめ、自分自身をいじめ抜いてきたのです。そしてこの考えを理解できないものは、正義に反するものであり、自分の敵なのです。そして、そのような人たちには、自分の苦しみを味あわせるべきだ、そしてそれが正義だと思っているのです。

また、正義感に燃えた彼女たちは、自分が平等に扱われているかを絶えず監視しています。

平等の概念に関して、面白い実験があります。

2匹のサルに報酬を与えるのですが、お互いが見える状態で、一方にはキュウリを、もう一方にはブドウを与えます。すると、キュウリを受け取ったサルは、もう一方のサルがブドウを受け取っているのを見ているので、キュウリを飼育員に投げつけるのです。

自分のコントロールできないもので幸不幸が決まってしまうということは、不平等以外の何物でもありません。だから、彼女たちは躊躇なく、キュウリを受け取ったサルよろしく怒りを爆発させるのです。

私は容姿に恵まれなかったので、男性から冷たくされることは仕方の無いことだと思っていましたし、もともと人生は不平等であることがわかっていました。そのため、逆説的に恵まれている(と自分で思っている)人たちの不平等感と行き場のない怒りがわからなかったのです。

私のケースは特殊ですが、女性に嫌われるのは、このようなことが理解できないある意味合理的な人なのです。人は人だし、そんなの馬鹿らしくない?と笑ってしまえるあなただから、彼女たちの敵なのです。だから、女性の職場で悩むあなたは間違っていないのです。

女性性の癒やしと充足

先ほどの本に戻りますが、このような女性に対処する方法は、彼女たちの傷ついた女性性を癒やすことであると説いています。人を攻撃するということは、自分の存在が否定され、脅かされると感じるからです。否定されて攻撃される前に、こちらから攻撃してしまえ、ということですね。そして、―現実はどうかということはさておき―彼女たちは、つまり女性達は自分ではどうしようもないことで不当に扱われてきたのです。私はこんなに正義のために頑張っているのに誰も褒めてくれないと、本気でそう考えているのです。

私はこの本を読んで、彼女たちのやり場のない怒りと苦しみ、ひいては女性の生きづらさがわかったような気がしました。人間とは結局、哀れなサルに過ぎないということなのでしょう。

そのことが深く理解できるようになってから、なぜか知りませんが、いろいろな人から悩みを打ち明けられたり、相談に乗ったりするようになりました。そういうときは時間が許す限り、彼女たちの話を聞いてやります。そして徐々に、彼女たちの考えることがよくわかるようになってきました。

さて、昨今では、先生同士のいじめや、虐待などといった耳を疑うようなことが取り沙汰されることが多くなりました。

子供にいじめはいけないことだと言っている大人達が、特に、子供を養い育てる母親や、これから母親になる女性達が、実際に他人を攻撃したり、おとしめたりするようなことは感心できるものではありません。子供は大人達のことをよく見ています。子供のいじめだけでなく、今の日本は、経済や政治においても、「今だけ、金だけ、自分だけ」があまりにも行きすぎています。

女性の力とは、命を育み、愛し、そのために自己犠牲ができるということなのではないでしょうか。これは男性にはできないことです。

だからこそ、女性が、他人の目からみた見せかけの不毛な幸福論に振り回されず、他人に依存せず自分で生み出した幸せを享受して、生き生きと自分らしく生活できるような社会が、ひいては素晴らしい幸福な社会を生み出すのではないかと思います。今の日本に確実に足りないのはこのように癒やされて充足した女性性なのではないでしょうか。

なんだかやたらとテーマが重くなってしまいましたが、この記事が女性の職場でうまくいかない人のヒントになったら幸いです。それでも職場の人間関係がどうしてもなー、と思われる方はフリーランスという道もありますよ、と軽くまとめて今週は終わりたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です